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カテゴリ:過去HPの作品( 26 )

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目が、またかすんできた。
もう、12時を過ぎるというのに、まだ煌々と部屋の照明の残る一室。
また、辛い時間になったな、と遠藤康弘は心の中で思った。
ユーザに納めるはずのデータ変換が昼間に失敗していたため、今夜は終わるまでここのUNIXマシンとつきあわなくてはならない。
PCが所狭しと並ぶソフトウエア会社のビルの3階には、それでもまだ10人くらいは同じフロアに残っているだろうか。
遠藤が目をこすっていると、「おっす!」と声がかかった。協力会社の倉田だ。
「まだ、遠藤さん、やってるの?」倉田はまだ歳は二十歳のせいか、この時間帯では6つほど年上の遠藤よりもはるかに元気がいい。物怖じしない性格だが、ラフな物の言い方にしては年輩の人間からは可愛がられている。
「あ、ああ。また、やっちゃったよ」こういう失敗は、遠藤にとっては珍しいことでもなかった。
「あれ?もう眠そうですねぇ。大丈夫ですか?まだ先は長いんでしょ?」
「い、いや、大丈夫。それより、倉田、まだ帰らないのか?」
「ボクは、いつでも帰れるんですけどね」倉田はにたにたしている。
「人にきいたんですけどね、えんどーさん、夜になると[変身]するって」
「なんのことだい?」
「いや、知らなかったんですけど、えんどーさん、コンタクトなんでしょ?」
「・・」そのとおりだ。でも、それがどうしたのだ。
「でも、夜中になると、ウルトラマンになるって。メガネかけて、ジュワッ!って」
「おいおい、・・。」彼は、倉田が言わんとしていることがわかって、うんざりした気分になった。「それより、もう残業つけるなよ。さっさと帰れよ」
端末に向かう姿勢になって、遠藤は倉田を無視することにした。
「・・・ま、いっか。そいじゃ、また。帰ります」
案外倉田はあっさりと引き下がって机の向こうに行ったようだ。

数十分後、遠藤は洗面所で目からコンタクトを外していた。
そして、分厚いレンズの眼鏡を掛けた。
自分の顔を鏡で見ると、目は眼鏡の枠の中で実際の大きさの1/3ほどに縮んだように見える。
牛乳瓶の底、とは今の人間にはあまりピンとこない表現だが、少なくとも普段よりはルックス面ではマイナスの感じられる顔になる。
それがイヤで、昼間はコンタクトにしているのだが、長時間になるとどうしても目に負担がかかって、こうせずにはいられなくなる。
仕事でルックスを気にする必要はないのだが、まだ独身の彼には女性社員のことも無視できなかった。ハードな労働条件にもかかわらずそのフロアには魅力的な女性は少なくなかった。
結局、遠藤は白みがかった空を見ながら帰宅していた。

数日後。
遠藤が自宅でインターネットをぶらぶらしていた時、リンクリストをなにげなくどんどん辿っていくと、垢抜けないホームページが現れた。
「なんだい?これ?」
テキストベースの、やたら大きなゴシック体の文章。タイトルか本文か区別のつきにくい内容。さっさと戻るつもりが、1行の説明に目を止めた。
「超近視の方に朗報。度数調整自在で,外見は掛ける前と変わりません」
また胡散臭い話か、と思いながら見ると、商品を扱う代理店の一つに彼の住む山間部の地方都市の,しかも行きつけのS書店の名前があった。
何か新たな企業が来るなら,もっと大きな中心都市が先なのが通常なのに、不思議だった。
結果としてはそのページのアドレスは記録されることなく終わったのだが、その数時間後、彼は引き寄せられるように車であの本屋まで走っていた。

午後遅くのS書店の店内は、いつも通りに適当に賑わっていた。
これもいつも通りに、遠藤はパソコン関係の雑誌のコーナーでめぼしい本に目を通したあと、ゆっくりと店内を歩いた。たしか、ちらっとみたあのホームページは「テレス」という名前だったはずだ。しかし、そういう店のコーナーのような部分はどこにも見えない。
(やっぱりな。)
期待した自分もちょっと恥ずかしかったし、安心した気分で、PC関係の雑誌を1冊手に取って、彼はレジに向かった。
そこで、彼はレジの入力端末の背中に小さいダンボール製のカードを見つけて、ぎょっとした。
「テレスにご用のお客様は隣りのDS[ジェイ]までお越しください」
と書いた札だった。

(ま、見てみるだけ、だからな)
S書店の隣りのテナントはディスカウントショップ、とはいえ、多品種の雑貨を扱うのがメインの10坪ほどの「ジェイ」という店だった。
彼が店に入っても、他に客がいるのかどうか、わからないほど通路が狭く、あらゆる種類の日用品やら文房具やらがやたらと目立つ値札の奥にぎっしりと陳列してある。
商品を袖でひっかけないように気を付けながら歩いて行くと、小さなテーブルに眼鏡が何個か並べてあった。そして、「テレス」と,まるで商売をやる気のないような文字で書いたハガキ大の説明板。その下には「詳しくは係員まで」とある。
通路を見通すと、30代くらいの大人しそうな店員が立っているのが見えた。
「すいません、ちょっと、これ・・・」
ま、最後は友人の話にすげ替えてしまえばいいだろう、と思って声をかけた。店員はすぐに歩いてきた。
「これって、ただの眼鏡なんですか?」
「ああ、これね。」
店員はあっさりとした愛想笑いを返した。店員の説明によれば、遠藤が見たホームページのような話だった。しかし、外見は特にそれほど良くなるワケでもなく、遠藤のように質問する客のほとんどがひやかしだという。そのために、「テレス」の関係者が本屋に作ろうとしたコーナーもそこそこに断られて、この「ジェイ」の店長が気の毒がって置かせてやっているという。
「でも、あと1週間くらいかな。置いとくとしても」
「そうですか」遠藤は最後のつもりで眼鏡を見た。その一つは、どうやらサングラスのようで、ちらっとコードのようなものが見えた。「これは?」
「ああ、これね。たしか、テレスの人はこれが売り物みたいに言っていたね。近視の人が裸眼でかけても、クリアな視界が保証される、とか・・・でもね」店長は苦笑いした。「私にはどんな効果かわからないんだ。いまだに眼鏡には無縁でね」
ま、よかったらゆっくり見ていってよ、と店員は嫌みのない口調で言葉を残して去っていった。
サングラスを手にとると、少し普通のものより重い。
掛けてみたら、全く前が見えない。なんだ、これ、と思って下を見ると、テーブルの上に短く操作説明が書いてあった。
その通りにやってみたが、結果は同じだ。
「まてよ・・・」
遠藤はふと気づいて、モードの切り替え順を入れ替えてみた。そして、こっそりとコンタクトを外して掛けてみた。途端に,遠藤の口はぽかんと開いて、それからにんまりとほくそ笑んでいった。

どうやら、そのサングラス(商品名はテレグラス、と書いてあった)は眼鏡のレンズはガラスではなく、ウェアラブルPCと呼んだ方が妥当なようだった。テレス、とはおそらくテレスコープ--望遠鏡--から来ていて、ほとんど接眼状態でレンズ部分に伝えられる情報を,裸眼で視認できるということだろう。やや太いと思われるフレーム部分に組み込まれた小型レンズに外部からの映像を取り込み、それを内側に投影する仕組みだ。解像度は、かなり、いい。
たしかに画期的だが、説明が不十分なようで、ひやかしの客ばかりだったことは頷ける。
デザインも、そこらにあるサングラスとは違ったフレームのようだが、奇異な感じでもない。
特売のポータブルDVDプレーヤと同じくらいの値段を見て、遠藤はもう迷うことはなかった。

駅から少し離れた雑踏。遠藤はテレグラスを掛けたまま人通りの多いアーケード街を歩いていた。早いパンニングには映像が完全にはついていかないようだが、普通に使う場合には問題はなかった。むしろ、鮮明に映り過ぎる部分もあり、どぎついデコレーションの店の前では軽いめまいを感じた。しかし、これも慣れだろうな、と彼は思った。
(そう、そう)
実は本体とは別に、ワイヤレス操作できる名刺大のカードがあったのだ。
これも組み合わせでバリエーションがありそうだった。
一番単純そうな「ZOOM」と印字されたボタンは、そのままズームができるのだった。他の機能は、その時は試すのはやめて、目への負担の程度を調べることにした。
家に帰ったが、予想したよりも、疲れは少ない。ただ、(このデザインじゃ、会社にはかけて行けないな)と彼は苦笑した。

目が,またかすんできた。
もう、夜12時を過ぎるというのに、まだ煌々と部屋の照明の残る一室。
また、辛い時間になったな、と遠藤は心の中で思った。
部屋にはまだ数人が残っている。その中に、およそプログラマーではなくて「グラマー・モデル」として才能を発揮できそうだと10人中8人が口を揃えて言いそうなルックスの岸田亜由美がいた。
もちろん、そんな彼女を狙っていたのは、数人の男性ばかりでなく遠藤も同じだった。当然、「予約済み」の噂もいくつかあった。
彼女の席は遠藤の前の通りで、そこで彼女の後ろ姿が常に視界に入っている。
(いかん)目の痛みに耐えかねて、彼は洗面所に向かった。コンタクトを外してから、(しまった)と彼は焦った。
間違って、あのテレグラスを持ってきている。ただ、まだ仕事が終わる目途はない・・・。部屋から声が聞こえた。
「お先に~」
3人ほどが帰るようだった。これで、フロアにはほとんど人はいなくなるはずだ。上司は残っていない。
(ま、いっか)
思い切ってテレグラスを掛けた。あとは、野となれ、だ。
席に戻った。
フロアには、亜由美と2人、ではないが、あとは遠くのデスクに2、3人いるくらいだった。みんな黙々と打鍵している。
しばらくして、前の席の亜由美が彼の方に振り向いた。
「えんどーさん、先週も徹夜でしたよね」
「あ、ああ。そう。ユーザさんにはかなわないよ」
「ふーん、そうなんだ。あ!そのサングラス!なんですか?それ」
仕方ないか、と心の中で舌を鳴らした。
「あ、度付なんだけど、今日、間違えて持ってきちゃって。ははは」
「ちょっと変わってますねーレイバンじゃなさそうだし・・・」
亜由美の大きな瞳が勝手にズームされるようで、彼は慌ててキーボードに目線を落とした。
それと同時に、ワイヤレスカードをバッグの中で探した。あった。
たしか、周囲をぼやけさせるアウトフォーカスの機能があったはずだ。
それを選んだはずだったが、目の前のテレグラスのディスプレイには
「ネイキッド」
の確認メッセージが現れた。
顔を上げて、前を見ると、デスクの引き出しを探す亜由美の横からの姿が見えた。
「!」
その彼女の姿は赤外線を通したよりもリアルに、白い素肌が透けて見えた。
それも鮮明に。彼の頭の中でアンビバレンツな理性が闘う間に、彼女は元通りに後ろ姿となっていた。洋梨型のシルエット、それだけでも扇情的な眼前の光景に、彼の指はぴったりと止まってしまっていた。
我に返って,焦りながらワイヤレスカードをいじり、やっとのことでノーマルモードに設定を戻した。

「ああいうこともできるんだ・・」
思い出すともなく、亜由美のあのシーンは頭に焼き付いていた。
自分の車で高速道路を走っている遠藤の口は知らす知らずのうちに、ニタついてしまっていた。その時、前を走る車のブレーキランプが一斉に点灯したようだった。そして、停止。通常にはありえない減速だ。
前も、後ろも車に囲まれてしまっていた。
やがて、警察のサイレンが聞こえてきた。
パトカーや救急車が行った先には、トンネルがあるはずだ。
遠藤は全く止まってしまった車を出て、他のやじうまと同じように前方へ歩いて行ってみた。
同じように集まったやじうまから「衝突事故らしいな」とか「ぺしゃんこだってさ」とか声が聞こえる。
トンネルの前では警察がいて、一般ドライバーに立ち入り禁止を告げている。
よく見ると、事故車は車の影に見えているようだ。
彼も立ち止まって、そして「テレグラス」のコントローラを手にした。
「トランスペアレント」
というの確認メッセージが現れ,その下のゲージをすこしずつ大きくしていった。
透過性機能が作動し、並んだ車の内部やその向こうの人間の姿が現れては消えていく。2台のトレーラの間に挟まれた事故車らしい乗用車が映され,その中に、細かくだが動く人の姿が見えた。回りには,ややあきらめ気味な表情の消防隊員があった。
モードを通常に戻し、彼は近くの警官に声をかけた。
「乗用車の中の人、早く助けないと」
「いや、そうなんだが、あの様子じゃ、手をつけられないのでね」
「何言ってるんですか。まだ生きてますよ。早く、カッターかなにかで切り開いて出してあげないと」
「そう言われてもねぇ・・・」
「あのですね」さっきの映像を思いだしながら言った。「後部座席の、左側を開けてみてください。そこに頭があると思いますよ」
「なんだって・・・?」
「早く早く。連絡してみてくださいよ」
いぶかしげながら警官がトランシーバを出すのを見届けてから、彼は自分の車に歩いて戻っていった。しばらくして、車は流れ始めた。
次の日の新聞で、その事故の記事が載っていた。乗用者に重傷者がいたことを記述してあったが、彼の助言が活かされていたかどうかはわからない。
それでも、彼はちょっと満たされた気分だった。

幾度となく繰り返される作業も、彼には一向にルーチンワークとはならなかった。それで徹夜することがむしろルーチンワークとなっていくようで、遠藤はまたも目の疲れに襲われる時間を迎えた。
テレグラスの方がやはり鮮明に回りが見えることもあって、人の少ない深夜のフロアではかけることにあまり抵抗はなくなっていた。そして、今夜も亜由美が前の席に座っていた。
しかし、亜由美はディスプレイの前にじっと座っているのではなく、デスクの引き出しをさかんに引っ張り出してはまた別の収納棚に行くというのを繰り返していた。
「どうしたの?」変換JOBが終わるのを待つだけになった遠藤は声をかけた。「捜し物?」
「ええ・・」亜由美はいつになく本当に困った顔をした。そして、彼が声をかけるのを期待していたふうでもあった。「そうなの。インストール用のDAT、明日ユーザさんに持っていくんだけど、見つからないの」
「どんなやつ?」
「ラベルはないの。ケースに、付箋で[××町圃場データ]って書いてあるけど・・。たしかに私のデスクのそばにあるはずなんだけど」
「ふーん。おかしいなぁ。ちょっと待って」
遠藤はコントローラを握った。
「サーチ」
の確認メッセージが出た。そして、「何を?」のプロンプトが。
付箋にあるはずの文字を入力して、彼はそのままフロアを見渡していた。
すると、彼女のデスクではなく、彼女の上司の部長のデスクで赤い点滅が見えた。そこまで歩んでいくと、雑多な資料の下から、彼はDATの小さな箱を拾い上げた。付箋にはその通りの文字がある。
「あったよ」笑みを抑えながら、亜由美を呼んだ。
びっくりした顔で近寄った彼女の表情が、見る見る安堵の顔に変わり、そしてじっと彼を見据えた。
「ありがとう!そうか、部長が持ってたのね。よかった!」
「・・・・ああ」遠藤はちょっとたじろいで,顔が触れそうなほどの距離の彼女に向いた。「たぶん、そんなとこじゃないかな・・・ってね」
「感謝するわ!今度、何でも言うこときいてあげる!」彼女の目は遠藤を見つめたままだった。「ずっと探してたの。もう3時間くらい」
「そりゃ、よかった・・・」やっとそれだけ言って、遠藤は彼女から離れた。「また、楽しみにしてる」
しかし、彼は楽しみになどできなかった。なぜなら、部長のデスクで見つけたDATのさらに下には、キャミソールの彼女と部長がホテルの部屋の中で撮影したらしき写真が挟んであったのだから。

その2時間ほど後、やっと仕事の終わった遠藤は帰路に着いた。
亜由美と部長の件は、それはそれで仕方ないことだが、どうにも割り切れない気分に満たされていた。
深夜ということで、つい踏み込んだアクセルは、普段よりは深かったようだ。
全く予期しない場所で、いきなり背後から赤い点滅灯が近づいた。
スピーカからの指示で、彼はしぶしぶ車を道路脇に停めた。
「お急ぎのようですな」後ろに停めた車から出てきた警官は,アイロニーたっぷりに窓から話しかけた。
免許証を提示し、そしてパトカーに乗るよう促された時、その警官は彼の顔(もちろんテレグラスをつけたままの)を覗き込んだ。
「そのサングラス・・・もしかして、あんた、いつか高速道路で・・」
「え?」
「そうか?そうなのか?探していたんだ。命の恩人とやらはどこだって再三再四電話があってね!」
切符を切られるどころか、彼は住所と連絡先を伝えただけで、無罪放免となった。そうして、翌日に、女性の声で連絡が入った。
この前は事故で絶望とされていた弟を助けてもらった、それは、遠藤の警察への指示のせいに他ならない、一度会ってお礼をしたい、と。
遠藤は、それほどのことをしたとは思えない、と丁寧に断ったが、向こうは引き下がらなかった。そして、ごく簡単にということで、カフェでの昼食を約束した。

待ち合わせた相手の女性は遠藤よりもちょっと年上のように思えた。
席に着くやいなや、あの事故で、本当は救急隊員が諦めていたところに入った遠藤の指示でレスキューが来たことや、その時の事故の状況やら,30秒に1回くらい頭を下げながら彼女は説明を続けた。
テレグラスがあったからこそできた技を賞賛されるのは、彼には面はゆく、そこそこに席を立つ予定だったが、時間が過ぎて行くにつれて、その女性(真美といった)の大きな瞳に惹かれていくような自分を感じていた。
そして、これで終わるはずなのに、弟さんの見舞いに行くという口実で再会を約束してしまっていた。

それが只の恩義からの感情かどうかはわからないが、彼が真美と幾度か会うことに、彼女には全く逡巡がなかったようだ。
ある公園で、ほとんど事故の話題には触れない会話の途中、遠藤は真美が中座した時にテレグラスのコントローラを
「ジャッジ」
に設定した。
戻ってきた彼女に遠藤は話しかけた。
「・・・ところでさぁ、」
「何?」
いくつかの質問を遠藤は彼女に投げた。自分のこと、そして彼女の気持。
これからのこと。うまくは言えなかったが、彼女が口を開くたびに、ディスプレイは「true」の文字を繰り返し表示した。その内容は彼が予想していたものばかりだった。
そうして文字が表示されるうちに、彼は猛烈な自己嫌悪に襲われていった。
「ちょっと失礼」
遠藤はテレグラスを外して、コンタクトにはしないまま、彼女を見た。
そして、本当の気持を彼女に伝えた。
ぼんやり映った彼女の表情は、穏やかに笑い、小さくうなずくことだけは遠藤にもはっきりとわかった。

しばらくのちに、テレグラスの画面は輝度を失い、交換するべき電源の開け口も見つからないまま、彼には無用の物となっていた。
その代わり、彼女との出会いの記念として、それはずっと大切に仕舞ってある。

          <完>

[あとがき]
もっと業界ネタにしようと思っていたのですが、
普通の話になってしまいました。
どうか次回にご期待ください・・・・

初稿:99.11.21


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この地方では一、二の長さを誇る川を,見下ろすように建つ白く高い建物。小林睦男は、その入り口のスロープを妻の利恵と一緒にゆっくり下っていた。
40代半ば過ぎの睦男の頭には白いものが目立っていたが、企業戦士としての面立ちの鋭さは失っていなかった。
その建物を出入りする寝間着姿や白衣の人々と,しばらくの間同じ場所で生活していたとは思えなかった。
「結局、かかっちゃったわね。もう5年も」利恵はそれでも顔に安堵感をのぞかせていた。「長いようで、短かったみたい」
「ふん」睦男は利恵を見た。「こんなに長くなるとは思わなかった。冗談じゃない。また、わしの仕事は初めからやり直しだ。」
「まぁ、いいじゃない。」利恵は扱い慣れた子供に対するように言った。「考えようによっては、この時期にブランクを置けたのはラッキーかもしれないわよ」
「ラッキーだと?」睦男は少し声を荒げた。「おまえは、仕事のことをなにもわかっとらん。先に帰ってくれ。わしはちょっと寄る所がある」
「はいはい。わかりました。」利恵は荷物を一旦下に降ろすと、車のカギをバッグから出していた。「でも,今のこちらの世界をあなたこそわかってないんじゃない?」
彼女が言い終える前に、睦男は入院患者だったとは思えぬ矍鑠(かくしゃく)とした足取りで道路を横切っていった。

睦男は、舗道を歩いている途中で、見慣れぬものを発見した。
子供にしては小さすぎるし、かといって乳児であればあんなにすばやく動くこともできないはずだ。
白いエプロンを着ているようなそれは、やはりロボットのようだった。寸胴を逆さにしたようなロボットには、自治体の名前とナンバーが書かれていて、ちょこまかと動いては、どうやらゴミを集めているようだ。
しばらく立ち止まって見ていたが、そんなことをしているのは自分だけなのに気づき、睦男はまた歩きだした。擦れ違った若者が、平気で飲み終わった空き缶を投げる音がした。睦男が振り返ると、あのロボットがたちまちのうちの空き缶を拾って「食べて」しまうのが見えた。
睦男は、とりあえず,昔馴染みの喫茶店に行くことにしていた。

「ほう、5年も」今時珍しいコーヒー専門店を営んでいるマスターは,睦男と同じ年代だった。彼が以前と変わらぬ容貌と振る舞いで接してくれたのが睦男には安心できた。「ほとんど意識不明だったんですか?」
「そうなんだ。交通事故でかつぎ込まれて、当時は家族も覚悟は決めていたらしい。でも、医学の進歩がおいついてくれたみたいでね。先駆的な医療のおかげで、三ヶ月前に意識が戻ってからは,そんなことがあったなんて全然覚えていない。とにかく早く仕事したくて。」
「そういえば、家族の方がお迎えに来てくれたのではないですか?」
「いや、それは」睦男はきっぱりと続けた。「妻には先に帰らせた。親しくしていた会社の部下も、今となってはあちこち散らばってしまっている」
「寂しいもんですな」
「それはいいんだが」睦男は、気になっていることをマスターに訊ねた。「さっき、変なものを見たんだ」
「ほお」
「あそこの舗道にいたロボットみたいなものは何だろう」
「ああ、あれですか。」マスターは微笑んだ。「清掃型ロボットですね。スイーパと呼ばれてますが」
「ふうん」
「そういえば、小林さんが入院の間、いろいろあったみたいですよ」
「そうなのか?新聞は急いでまとめて読んだんだが・・」
「そうですねぇ、基本的には、世間の流れに行政が折れてしまったというか・・・」
マスターが言うには、それまであったいろいろなインモラルな事件を掃討するための対策が画期的な形で実現したという。
例えば,無謀運転やよそ見運転の車が事故したとしても、または、横断禁止の道を渡ろうとして轢かれた自転車がいたとしても、よっぽどのことがない限り、加害者は罪として罰せられることはない。
その代わり、補償額はほとんど満額被害者に支払われる。
そのせいで、保険料は以前よりは高額となっている。しかし減ることのない事故による修理で、整備工場の売上はむしろ増えている。
医療保障にも適用されるため、健康保険料も増えているが、逆に医療報酬は増加傾向にある。
暴走族の騒音被害も、ちゃんとした申請をすれば、その見返りがもらえる。ある地域では、そういう実態を知った暴走グループが走行回数を減らしたほどだ。
家の庭に咲いていた鉢植えをこそどろされるケースについても、被害者には唯一無二の存在だったとしても、その被害に応じてやはり代償額が支給される。
バイクなどの盗難保険はほとんど義務化されているほどだ。
「実際、国のGDPは増えているんです」
「まだ、そんな甘いことを言っていたのか?信じられん。」睦男は語気を荒くした。「あの頃は、みんな甘えていたんだ。自分が何をやっても、大丈夫だろう、と。それをすべて許す世の中になってしまったとは・・・そんなバカな。」
睦男はいてもたってもいられなくて、店を後にした。

街中を歩いていると、ゴミをぱっぱと捨てる人間が目立つ。
ついに彼は我慢できなくなって、捨てたばかりの若者2人に食ってかかった。
「おい!なんでゴミ箱に捨てないんだ。それか、持って帰るとかいうモラルは君たちには、ないのか?」
面と向かって言われた若者の一人は怖がるふうもなく、きょとんとしていた。しばらくの沈黙の後、横の若者が口を開いた。
「おっさん、勘違いして貰っちゃ、困るんだな。」
「何が、困るというんだ!」
「俺達ゃ、貢献してんだぜ」
「貢献だと?」
「ほら、見なよ」
さっき彼らが捨てた缶は、もうあの「スイーパ」が口に運ぶところだった。
「な?あいつがいればいいんだ。それに、スイーパの稼働率があんまり低いと、また困るのはお役所の方なんだぜ」
「それでもなぁ、・・・・」
「いこ、いこ」
睦男の横を、彼らは大股で去っていった。
承服できない思いで、ゆっくりとした足取りで歩く彼の眼前に、この昼間にベンチを使って濃厚なキスを恥じることなく見せている男女が見えた。
慌てて街路樹に隠れた睦男の耳には、聞くともなく彼らの会話が入ってきた。よく見れば、他にも通行人はいたが、通行人にしても彼らにしても、一向に気にするふうはなかった。
「ねぇ、奥さん、大丈夫かな・・」
「そんなこというなよ。それともユカの方こそ、ピル大丈夫か?」
「もちろん。このまました方がお互い、いいもんね。それに、できても、ナイショで全部世話してくれる保育園、あるんだって」
「そうだってな。いい世の中だよな」
「あ!もしかして、あのコのこと考えてた?」
「あ?うん?いや、そんなことないよ」
「ま・・・・・いっか。」
「お?オマエこそ、アイツのこと考えてなかったか?」
「うふ?ナ・イ・ショ。それより、ほら・・・・」
睦男は、絶望した気分で後戻りを始めた。
舗道から車道の境目に足を出した瞬間、鋭いブレーキの音が響いた。

「まったく・・・こんな日に事故なんて・・」病室らしい。利恵が見えた。「だから、一緒に帰ればよかったのに」
睦男のベッドの横には,利恵以外にも、加害者らしき男と、保険会社の関係者らしき男がいた。
「でも、一ヶ月で済むそうよ」利恵が顔を近づけて言った。
「・・・・こんな世の中になっていたとは、知らなかった」睦男は痛みからではなく、心の奥から、無念そうに呟いた。「こんなことなら、いっそ死ねばよかった。オマエはオレの代わりに生命保険でやっていけばいいんだ」
まあ、と利恵があきれ顔を見せる。
「お言葉ですが」保険会社の人間らしき男が眼鏡を、つい、と上に押し上げて、話した。「今では、保険料は奥様にはお支払いできません。いや、お支払いするのですが、通常はそのまま国庫に寄付していただくことになります。今のシステムを維持するためにね。これはどなたでも同じですが」
「そんな・・・・・そんなバカな!」睦男は叫んだ。
保険会社の男が困ったように言った。「困りますね。そんな甘いことを言ってもらっては」

          <完>

初稿:99.09.05








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昭和一桁生まれ、80代のH子は一人暮らしで、夫には先立たれ、息子二人はそれぞれ家庭と家を持ち、自立している。
でも、きままなパックツアーや、同年代の昔からの友人との交友で、寂しいことなどなかった。
息子や、その子供である孫たちにも、ことあるごとに食事に誘ったり、珍しいものや美味しいものを提供することで、経済的にはマイナスでも、わずかでも喜んでもらえれば本望だった。
それが裏切られる(期待したほどの反応ではなかった)ときもあったが、与えることで得られる満足感で、その無念な気持ちは押しとどめることはできた。

ーーーーーーーーーーーーーーーー H子

80を越えてから始めた「携帯電話」の扱いには苦労はしたが、最低限の機能は使えている。嬉しい。
数年後、ある時期を過ぎてから、息子とのメールのやり取りがおかしくなっているのに気づいた。
「さっき伝えたよね」と知らされる内容がうまく思い出せない。
メールの履歴を追えば済むことなのだろうが、その操作もなんだかできない。
結局は、応対ができないせいで、息子からも苛立ったような横暴な返事をもらうので、こちらもつい逆上して、そのあとで後悔する。
そんな連続な日々。

ある日、車を運転して自宅に戻り、しばらくすると来客を示すベルが鳴る。
出てみると、おまわりさんだ。
いつもの和やかなイメージのおまわりさんではなく、ちょっとこわばったような表情の男性二人に、少なからず警戒感を禁じ得ない。
「さっき、南区で、車で、接触事故されましたよね。覚えていませんか」
そんな覚えはない。そんなバカな。南区の知り合いの家に行ったことは覚えているけど。
説明を受けるが、記憶にないことばかりで、まったく対応できない。
なぜか、下の息子(T雄)が現れて、警官と話を始めた。
しばらくして、息子曰く
「お母さん、さっき、運転中に、他の車と接触事故したんじゃない?だから、警察がきているんだよ」
え?!でも、思い出せない。そんなこと、私がする訳がない。
どうやら、息子が警察と話をつけて、その場は終わったようだ。

たまたま家に寄った、という息子は
「お母さんは、知らないうちに他の車に接触して、そのまま帰ってきたんだ。幸い、大破したほどではないけどバンパーは交換しなくちゃいけない。当て逃げされたみたいで、先方はかなり怒っているようだけど、保険会社の人でなんとかするから」
と言う。

その時は荒唐無稽な作り話のように思えたが、夜になって、じわじわと記憶が蘇るとともに、先方に申し訳ない気持ちがひたすら湧いてくる。
ペンをとると、お詫びの長い手紙をしたためていた。

息子の話では、被害者の人は気分を害していて、かなりゴネていたようだが、保険会社がなんとかとりなしてくれたらしい。
住所をきいて、「ごめんなさい」だらけのお詫びの手紙も、郵送することができた。

いままでは、車を使って移動できたのだが、この1件があったせいか、運転免許返納を勧められた。
これは仕方がないので従った。車も知人に安く譲った。

でも、いままでのように思うように銀行でお金がおろせないのは困る。
息子に頼んで銀行に連れていってもらうにも、仕事のある息子は都合をつけるのに苦労するようだ。公共料金の支払いにも使っている通帳とカードを息子に預けたが、使いたいときにタイムリーにおろしてきてくれないのが不満なので、もういいから通帳を返して、と告げると、足元もおぼつかない母親なのに、自分で銀行に行けるかと失礼なことを言うので、つい叱ってしまった。

この間、お盆の「お舟」を送るとき、近所の受付所まで歩いて運んで行ったときも、片側2車線の道路を横断するのに、一度の青信号では渡り切れなかった。
足が弱っているのはわかるが、歩けないのではない。

その証拠に、ある日、定期的に検査してもらっている病院にいかなくてはならないので、自分の足で家を出た。しかし、なかなか着かないので、一旦家に戻ることにした。
なぜか家の前で待っていた息子から「病院はそっち方向じゃないし、今日は日曜日だよ、お母さん」と、変なことを言われて、家に戻された。
まだ、歩けるのに。わたしはまだ元気。

やがて、大きな病院で検査するよう息子に促され、CTスキャンや記憶力テストなどした。かなり難しい問題もあったように感じて落ち込みそうだったが、担当のかわいらしい女性検査担当からは「よく覚えておいでですね」とか褒めてもらった。
数日後には、息子から事前の連絡があったように、市の担当者、という人から、介護保険がどうの、自分で生活できるかがどうのとか、ヒアリングを受けた。
何かのレベルを決めているようだった。

ーーーーーーーーーーーーー ケアマネA野

これ以上、弊社介護サービス対象のH子さんの認知症の状況をそのままにできない。介護度は少しずつ上がっている。
彼女の気分には数時間単位で大きな起伏があり、対応する職員にも、(それが仕事ではあるにせよ)精神的なプレッシャを覚悟しなくてはならない。
食事を用意していてもレンジで温める操作ができなくなりつつある。
テレビのリモコン操作さえも、わからなくなったので教えてほしい、と私の携帯に深夜でも連絡を受ける。
下の世話は、まだ紙パンツで対応可能だが、風呂には自分で入れない。
昔のように、より安全できめ細かな介護サービスを提供すべきだが、今は、「介護ロボット」、いや、ロボットと呼ぶにはさらに高度な機能を有する「パートナー」が存在するので、家族の方に了解を得たうえで、このサービスを試すことにする。

介護ロボット「プラッシー」の呼び名には、「生活にプラス」をもじった意味とか、「プラスcare(のC)」とか言われている。「薬の効果が期待できないのに、思いこむことで改善効果が表れる=プラシーボ効果」から、という皮肉った説もあるが、裏付けはない。

プラッシーには従来の介護サービスで可能な機能すべてがプログラムされており、運搬能力や顧客の身体を扱うに十分な駆動力を有していた。
昼夜問わず動作でき、顧客が睡眠をとる間に自発的に充電機器でバッテリーを補充できるので、理論的には24時間365日、反永久的にサービスを提供する。
標準的な日本女性の背丈よりはちょっと高い(165センチくらい)の人型で、ケアセンターから指示された、持病を考慮した(高血圧なら、塩分を控えた、とか)料理を作るのもたやすい。
薬の飲み忘れもほぼ完全に防止できる。
1日単位の「日報」も本部にメールで伝えられる。プラッシーの目を使って、リモートでモニターすることも可能だ。

数年前なら、介護つき老人ホームやグループホームに移って介護すればよいのだが、問題点は、自分で生活できないにもかかわらず、「自宅で生活したい」と望む認知症高齢者の存在だ。それがプラッシーの開発された理由だ。

「プラッシー」の顔は能面だ。髪はショートな女性型だ。
変に繕ってカスタマイズすれば、逆効果になるので、まるでアイスホッケーのキーパーのようなフェイスにも見えるが、笑顔を表すことはできる。
不気味な表情ではなく、無表情なイメージなんです、と製作会社からはアピールされている。
愛想の良さは、逆に顧客の我儘を助長するからだ。
もちろん、それが気に入らなければ、プラッシーに固執する仕組みではない。
今回、H子さんは、違和感なく受け入れてくれたようだ。

ーーーーーーーーーーーーーー プラッシー

9/20:
朝7時。H子様を起こすのですが起きられません。
9時45分。起床。
10時9分。朝食完了。
11時15分。食材配送受取。
12時12分~17時40分。就寝。
18時18分。夕食完了。
19時4分~22時7分。就寝。起床後、ご機嫌悪し。すぐ就寝。
2時2分。起床。4時23分まで、お話をきく。
4時27分。下着交換。
5時4分。就寝。

9/23:
朝8時。H子様を起こすのですが起きられません。
10時33分。起床。
11時1分。朝食完了。
12時20分~14時1分。就寝。
15時39分。夕食完了。
16時4分~20時45分。就寝。起床後、ご機嫌悪し。ベッドの上に立ちあがられ、危険なので抱きかかえて下す。叱られる。杖で4回叩かれる。
21時34分~22時10分。入浴介助。
3時11分。5時43分まで、お話をきく。
5時50分。汚れが目立つため上着交換。
6時13分。H子様就寝。衣服洗濯作業。
夜昼逆転生活の是正を提案したことで、H子様のご機嫌を損ねたようです。

9/28:
朝8時。H子様を起こすのですが起きられません。
10時51分。杖で5回叩かれるが朝食完了。
11時40分~15時2分。就寝。
16時23分。杖で7回叩かれるが夕食完了。右目に不具合のセンサが点灯するが、動作には支障なし。
18時56分~21時7分。就寝。起床後、ご機嫌悪し。徘徊の恐れあるので、玄関は施錠。杖で12回叩かれる。
2時56分~4時3分。お話をきく。
4時53分。就寝。
いきなり涙を流して感謝されました。また、お薬の飲み忘れをご指摘したところ、逆上の傾向がみられました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー H子

ケアセンターから来たロボットには世話をやく。
なにかと指示されるのがイヤ。
私が起きれないときは起きれない。
ハラがたつので叩いてやるけど、こたえないみたい。ロボットのはずね。
目を突いたら、ちょっと止まったわ。

ーーーーーーーーーーーーー ケアマネA野

H子様へのプラッシーの導入後4か月。
不具合は確認できず。
本体に、杖による破損個所があるので、使用を控えるようH子様に伝える。
状況によっては今の丈夫な杖を柔らかいものに変更することも検討する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー H子

どういうこと?!
あの子が死んだ、と、ロボットが言った。
息子のT雄の思い出を、ロボットはよく知ってたわ。
私もやっと思い出した、もう何十年も前の思い出なのに。

ーーーーーーーーーーーーー ケアマネA野

T雄様がいきなり入院され、T雄様がプラッシーと病室で話したい、とのご希望なので、一時的に交代要員をH子様の家に手配する。
病室での会話内容はすべて、T雄様の指示でプラッシーのマイクで録音しておいた。
T雄様の今の病状は穏やかだが、死期を避けて通れないという。
今ではT雄様の言葉が聞き取れず、ほとんど会話の成り立たない母親のH子様のために、認知症の治療には役立たないが、介護する側へのせめてもの力添えとして、自分と母との過去の印象的な思い出を思い出せる限り丸一日語られた。5月になれば県北のD公園に行って散策したとか、A川の中流にある小さな集落でホタルを家族で見に行ったとか、たわいもないが、きっと大切な思い出を、プラッシーのメモリにすべて収めること、そしてそれが母親を一時的にせよ慰める効果になることを望んでおられた。
医師からの余命宣告よりもはるかに短く、T雄様は先立たれた。

夏になれば「昔どこそこへ行きましたよね」とか、プラッシーの会話には大いに役立ったと思う。それをH子様が覚えていないときもあるけれど、記憶はタイムラグで蘇ることもあった。

[数か月後]

ーーーーーーーーーーーーー ケアマネA野

H子様の訃報は昨日だった。
今日、お通夜で実家に伺うと、息子様のうち長男のF太様がおられた。
F太様から、ムリかもしれないが、と要望をいただいた。
いままで介護をよくしてくれたプラッシーと同型のプラッシーを、一時的に貸してほしい、と。何のためかはその時はわからなかったが、バックアップ用のプラッシーは待機させているので、それで故人のためになるならば、とその日だけの借用ということで了承した。
いちおうの読経がおわり、家族だけの通夜の席をあとでそっと覗いてみると、半開きのドアから、なにやら2人の会話だけが、この場にそぐわないように楽しそうに聞こえる。
ゆっくり聞いていると、それはH子様とT雄様の声(にそっくり)だった。
プラッシーには録音記録された会話を使って、本人の声への音声変換機能もあるので、故人を偲ぶために利用したのだと容易く理解できたが、ここで、もう1体のプラッシーが必要だったのがわかった。
あ、どうも、お世話になりました、と、ドアを開けてF太様から出てこられ、中に案内された。
遺族が取り囲んでいたのは、H子様用のプラッシーと、(おそらくH子様用のプラッシーからT雄様のメモリをコピーされて)T雄様の声で話すプラッシーだった。
かつては、そういうふうに話せたであろう、昔の思い出の会話を、生きているかのような饒舌さで棺桶の前で再現していた。遺族で高齢の数人の女性の目は潤んでいるように見えた。

F太様から「今朝、あのロボットから提案されたんです。この設定。T雄は、よく覚えていたんですよ。母とのこと。死ぬときは、お上人さんからもらったありがたいお言葉をつづった紙を置いている部屋の中の場所をきいてて、極楽に行くためにそれを棺桶に入れてほしいとか、他にも母の希望をよくきいておいて、それをロボットに伝えてから亡くなったんです。死ぬ間際の母には、到底思い出せないことです。これなら、母も十分安心して往生できるんじゃないかな。このロボット、使わせてくださって・・・ほんとに・・・」あとは感謝の涙で声が詰まった。

親子の、当人のみしか知りえない記憶を正しく語ることの大切さ、他人には全く意味のないことだけど、その時間をできるだけ持たせてあげることは、きっと悔いのない最期にもつながるのだ、と、私は思った。
8月の午後。Y氏はもう既に汗でびしょびしょにぬれてしまったハンカチを額にぬぐいながら、人口300万人規模の白っぽい都会の歩道を歩いていた。
所属はシステム開発担当だが、むしろユーザと会って打ち合わせすることの方が多い彼は、暑がりなのを我慢して、夏でも背広を手放すことがなかった。
失礼にあたらぬようにするのは当たり前のことだが、彼にとっては徹夜よりも辛いくらいのしうちだった。
「ふう、あついなぁ」
彼は時計を見た。いつも早めに行動する彼は、20分ほど約束の待ち合わせ時間に余裕があるのを確かめ、ちょうど道の横にあった、ややみすぼらしい喫茶店にはいることにした。
「いらっしゃいませ」
小さく、主人らしい影がつぶやいた。暗い店のせいか、思ったよりも涼しい空気が、彼にはうれしかった。アイスコーヒーを注文すると、主人はすこし彼の顔をじっと見た。
(またか)
はたして主人は彼の予想通り
「ずいぶん汗をかいておられますな」
と声をかけた。彼は人一倍汗をかく自分が嫌で、いつもそう言われるのが苦痛でもあった。返事はしないで、彼は仕事の書類を出して、チェックするふりをした。
ほどなく、アイスコーヒーが来た。彼は運んできた主人と顔を合わさなかったが、主人が彼に言った。
「あのう、お見受けしたところ、この暑さにお困りではないですか?」
よく見ると60代半ばの、わりと話しやすそうな男だった。
「じつは」
主人は、背後から、地味な模様と色ではあるが、合わせやすい色の背広を出して、彼に近づけた。
「もしもご迷惑でなかったら、これ、差し上げたいのですが」
私の息子も暑い気候の頃、苦労していた、ということや、その息子も今は他界したことなどをきかされ、この主人を傷つけることなく断る方法も思いつかなかった。時間も迫っていたので、彼はせっかくくれる、というのを拒絶できず、紙袋に背広を詰めると、コーヒーを喉に流し込んで、まだなにか言いたそうな主人に早口でお礼を言うと店を後にした。

約束していたビルのロビーにはまだ担当者が来ていなかったので、そのまま待つことにした。彼はしばらくして、紙袋から背広を出してみた。よく見ると、古い型ではあるが、なかなかしっかりしたつくりの服だった。今着ている服の襟の匂いが気になって、彼は手早くその背広に着替えてみた。大柄な彼の肩幅にもかかわらず、案外着心地のよい背広だった。汗の出具合も、おさまってしまったようだった。
今回の打ち合わせは、仕様変更に伴う工数の増加に見合う経費の請求、という切り出しにくい案件だったが、いつもの担当者になく、スムーズに話が進んだ。それどころか、納期の見直しを含めて、かなりこちら寄りな対応を許諾してもらった。
少しいい気分になった彼は、帰りにあの喫茶店に、もう一度立ち寄った。
主人に、それとはなく仕事の結果の話をしてみると、主人も微笑んで言った。
「ずっと、大事に使ってやってください。もしも汚れたようだったら言ってもらえれば・・」
「ええ、是非、喜んで使わせてもらいます。」
勤務時間を越えていたので、主人にビールをおごり、彼も一杯だけ飲んで、店を出た。

それからのY氏は、商談となるとかつぎだされ、あれよあれよという間に、かなり大口の契約を次々と取り交わした。彼の場合はそれのみならず、けっして開発要員の負担を増やすことなく、着実に利益率を確保していった。当然、彼の地位は上がり、やがて彼は管理職に登用されることになった。とはいっても肝心な場面では彼の出番となる。
それでも、彼はあの喫茶店の主人との約束を守り、背広を大事に着ていた。
不思議なことに、無精な彼が時々雑に扱っていても、背広はそれほどに痛まず、常に彼と共にあり、彼を助けているようだった。夏になっても、以前と比べて彼は汗をそれほどかかずに済むようになっていた。ただし、自分の時間はどんどん減っていった。

やがて彼も結婚し、妻である人に生活の大部分を任せる日々がきた。
「あなた、この背広だけど・・」
「背広がどうしたんだ?」
「左の袖の裏が少しほころんでるの。ほら。見えちゃうの。悪いけど、今日はこっちのを着ていってくれない?」
「・・・しかたないな」
その日も商談はあったが、それまで大事な時は欠かさず着ていた背広の代わりに新しい背広で彼は出かけることにした。
はたして、結果はさんざんだった。いままでの彼にないへまをやらかし、なんとか上司に取り繕ってもらったが、それまでの彼をよく知っている上司は、彼に幾日かの休暇を与えた。それまでは順調にこなしてきたY氏にとってはかなりのショックだったが、なんとなく足を運んだ先には、その背広を彼にくれた主人のいる喫茶店があった。
Y氏は、主人の息子のことを訊いてみることにした。
「そうですね。あの子も、その背広を着てからというもの、仕事はどんどんうまく行っているようでした。右手の袖がほころびはじめるまでは・・」
「待ってくれ」
Y氏は耳をたてた。
「今、袖がなんとか言ったね」
「ええ。ちょっと痛んできたんですが、あの子は平気で着ていました。しかしそのうち体調を崩して・・・あ、でも、あの子には持病もあったし、きっと背広とは関係ありませんよ。」
きくべきではなかったか、と軽い後悔を感じながら、彼は店を出た。
(やはり)
あの背広のせいで、俺はここまでなれたのだ。しかし、これからもっと使っていけばどうなるだろう・・。あの主人の言うことをまるっきり信用する訳ではないが、やはり気になる。
休暇の間、彼が考えた末、出した結論は、
「部長、これお願いします」
「・・・ん、これは、・・退職願い・・き、君・・」

そこそこの会社に入り直したY氏は、一時、うるさく文句を連発していた妻にまだぶつぶつ言われながら、本来やりたかった、地味な仕事に徹することにしていた。あの背広の効力というものを全面的に信頼する訳ではないが、彼には自分の度量もわかっていた。それがあの背広の介在によって増幅するものであれば、いつかボロが出る。彼としては、自分の選択にそれほどの抵抗はなかった。

十数年がたった。
Y氏の娘が、今日は会ってほしい人を連れてくる、という。妻から、娘が少し問題のある男とつきあっていることはきいていたが、娘のやりたいようにしたいのも本音である。
その朝になって、彼はもうずっと着ていなかった、あの背広を着ることにした。
やはり、物自体はいいせいか、あまり汚れていない。妻は、そんな古いものを、と呆れていたが、彼はこの背広を使う、絶好の機会だと思った。
娘が相手の男を連れて帰ってきた。
その男は仕事が音楽関係なので、やはり派手な服でやってきた。しかし、彼の目には、それでも他の同類の男達よりは、まだ上品な色を使っているように見えた。
男と二人きりで話をしてみても、妻からまた聞きしたよりもはるかに真面目な男であり、娘可愛さよりもむしろ、彼自身も納得した上で、娘に色良い返事ができる気がしていた。
上機嫌の二人が出かけていったあと、彼は少し目眩を感じた。しかし、彼は背広を着たままで心地よい晩秋の夕日を満足気に、長い間眺めていた。
夕日の色に目が染まってしまったせいか、とも思った。やや暗くなってはいても、どうやら、彼の背広が、いつのまにか濃灰色から薄黄色に変わってしまっているように見えた。もう一度、よく見ると、いくつか汚れている部分があった。
「これは・・」
それには、汚れではなく、名刺らしき字体で知らない人物の名前が残っていた。
どこかで聞いたことのある、サラリーマン向けのバイブル本を書いた人物のようにも見えた。
彼が読んでみよう、とすると、その文字は、つい、と服から離れて、おりしも吹いてきた浜風に運ばれていった。薄い、無地に変わってしまった背広を見つめて、彼はやっとこの背広の本当の使命がわかったような気がした。

 ー  完  ー
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今回は、思い切り重いです。すんません。

先日、半年ぶりくらいに電話した友人は、驚いたことにチャリ運転中での交通事故で入院中だという。
そして、悲しむべきことに、彼の奥さんの話では、仕事への復帰はかなり難しい、と。
今は病院で寝たきりだという彼は大学時代からの友人で、最近は年賀状と年3回くらいの電話でしか繋がりがないが、今も気軽に話のできる大切な友人の一人だ。
あまりの無情感に押しつぶされそうになる。

ヨメさんの親戚にもバイクで交通事故に遭った女性がいた。
結婚後、親戚だということでお見舞い方々ヨメさんと訪れた施設で、寝たきりで口もきけないの彼女はゆっくりと、思うように動かせない指だけでようやく我々に,しっかりとした言葉でお祝いのメッセージを手元のホワイトボードに記してくれた。ごく普通の人としての意識があるのに、身体が動かせなかったり、言いたいことを自由に言えない苦しさはいかばかりかと心痛に耐えがたかった。
その彼女の元気な姿は見たことがなく、「事故の前までは、まったく健康な,普通の女性だった」と言われても、なかなかそのイメージは浮かばない。

この不遇な2人は事故に遭った境遇が違う。一人は家庭と子供を持ち,もう一人は独身だった。
人間として、後に残すものがあるのがせめてもの幸福か、一人身であったのが、かえって幸運かは、わからない。
でも、そんな様子を目の当たりにした人間は、少なくとも事故への実感はそれ以前よりもはるかに厳しく感じるはず。
毎度発表される事故死者の数の多さよりも、たとえ命が助かっていてもその周りや本人の悲しみがいかに深いものかを,向こう見ずで自分勝手な世の人々に知らせることはできないものだろうか。
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イタリアのモーターファンはシューマッハを心から祝福するのだろう。
人間的でない、とかいう彼への批判はあるが、フェラーリへの移籍当時は、なぜ、トータルなマシン性能が劣るチームへ行くのか、不可解な部分があった。
いくらフェラーリに特別な魅力があったとしても、有能なドライバーは勝つ(勝てるチームで走る)ことで名声や金を得ようとするものだし、セナなどは、その典型だったように思う。
「ドライバーチャンピオンを獲得する」と宣言し、その困難な目標をクリアしたシューマッハには、仕事をする人間としては最大級の賛辞を与えないではいられない。

レースの面白味という点では、2輪と4輪でどちらに軍配があがるかは個人差がかなりあるように思う。また、開催される年のマシンの内容によっても。
マシンの差という要素で、ドライバーの腕とは別の要素もあるから。(ただし、今回の鈴鹿はドライバーの天候へのびびり具合(=テクニック)が逆転の要素だったが)
普通の気象条件ではなく、例えば高温や雨になれば、それに秀でた(というよりは無謀な、というべきか)才能がかなり重要なファクターとなる。
雨のヘアピンでのブレーキングでは、スズキのケビン・シュワンツを超えるテクニックをもつライダーは見たことがない。
デビュー当時のアレジほど、コンクリートウォールを怖がらずにセナを差す勇気を持ったドライバーは見たことがない。
一度、すべてのF1・GPマシンを単一メーカとチームにしてみれば、それに勝ったドライバーやライダー自身の勝利の価値は,今よりも比べモノにならないほど大きくなるのではないか。



「父親は、できる限り仕事を切り上げて帰宅し、家族と一緒の食事をとるべし」
といった風潮があったと思う。それで家族の絆が深まり、ひいては非行の芽を摘むことになる、と。でも、本当にそうだろうか。
一緒に食事をとるたびに親としてのこちらの口をついて出るのは、
「ちゃんとして食事をとりなさい」
といったタグイの小言ばかり。もちろん、学校での話も聞くには聞くが。
いいたくはないが、昔自分が、自分の親に言われてきたように、最低限の「マナー」は貪欲に彼らに要求する。
「こぼすな、残すな、よそ見をするな。」
そういうことをコンビネーションで言われる彼らはさぞかし不味いメシとなって、余計にぐずぐずする、悪循環。
好きなメニューの時は思い切り「おいしい!」と叫んではいるが、そうでもない時はどんな気持で食欲を満たしているのか、不憫ではある。
平気でこぼして服を汚しても「大丈夫ですよ~ん」と説明する洗剤のCMがいくつかあるが、初めは嫌悪する気分で、今は、それでも受け入れないといけないのか、という気持。
しつけのいい子供というのは、遺伝的にそういう子供以外は,そういう小言にじっと耐えることのできる資質を備えているかと,可哀想にもなる。
いっそ、何もいわないままにして、ある程度オフィシャルな場で思い切り恥をかくのもいいかもしれないが、最近では、同じようにマナーの悪い仲間が増えていて、効果がないようにも思える。
しかし、いつか彼らがちゃんとしたマナーを身につけられた時、こちらが
逆襲される予感も、しないではない。


思い出の味・・といっても最近はあまり味わう機会のないものですが、それは「シェイク」ですね。えっと、よーするに「マックシェイク」とかの、アレですね。(^^;)
高校の時に「写真撮らせて」と誘った同級生のコ(もちろん♀)と、1日一緒に後楽園とかまわって、帰りに、その頃天満屋バスステーションにできたばかりの「ロッテリア」で一緒に注文した「ロッテシェイク」だったか。
「初恋の味」とまではいきませんでしたが(その相手のコは、けっこう遊んでたコだった)なんせ、学生にとってはそのシチュエイションも含めて、極めて新鮮なカンドーがあったと思います。(その時まだ岡山にはマックはなかった)
それと、社会人になってから、まだ栄町にマックがあった頃、(今はミスドになってるけど)彼女と立ち寄ってその頃限定発売だった「バナナチョコシェイク」を注文しました。これって知ってる人いるでしょうが、バナナ味シェイクに液体状のチョコがついてくるんです。シェイクは冷たいから、チョコを流して溶かすと、だんだん固まって中でカチカチになるワケです。これはかなり美味でした。その彼女ともいつしか別れてしまったけれど、彼女がいたからこそあの味を知ったと思えばその悲しみも慰められるってもんでしたね。



先日、知り合いの人からニッカの「スーパーニッカ」をもらって、「らっき~」って喜んで飲んだのですが、昔飲んだ頃に比べて、それほど美味しいと思わない。
そういえば、大学生の頃は「ホワイト」は問題外として、「ブラックニッカ」は何のためらいもなく愛飲してました。(金がなかったらレッドとか)それが、今となっては、「よく、こんなの飲んでいたな」と感じることには、やはり寂しさを感じました。
酒以外でも、学生の頃毎日のように夕食に通っていた中華料理屋で、美味しいな、とか思っていた味を、今社会人になって数年たって店で食べてみると、上と同じような有り様でがっかり、ということもありました。
今はもっぱら酒は「ハーパー」とか「ターキー」とかのバーボン系なので舌が違うのは仕方がないことかもしれないけど、ああいう安酒を6畳の部屋でコタツにはいって友人達と飲んで騒いでいた日々に、ときおりジェラシーを感じるのはボクだけでしょうか・



一度、カクテルの雑誌で見て、飲みたい、って思ったのが「ギブソン」でした。
これは、よーするに、「マティーニ」にはいってるオリーブがパールオニオン(タマネギか?)に変わっただけのもの。(でも見た目はツルンとしたラッキョそっくり)
行き付けの店で「できない」と言われたので「なんとかして」と頼んでみたら、数日後にはパールオニオンを調達してくれてました。
それ以来、店に行くと「ギブソン頼むのは××クンしかおらんのじゃけ、飲んでよ」とキョーハクされることしばし。わざわざアメリカの業者に頼んでパールオニオンがカンズメ1缶あるらしい。
味はといえば、あくまで「原料」は一緒ですからマティーニにかわりはないけど、めったに他の人が飲まないカクテル、と思えばまた味わい深いというもの。
初めての店で「ギブソンもできないのを?モグリぢゃない?」とかバーテンをからかうのも一つかと思います。(ヒネテンナーー)



バーボンを「美味しい」と感じ始めてから、しばらくは「IWハーパー」とか「オールドフォレスター」とか「ワイルドターキー」がお気に入りだった。
そんなある日、大学のサークルの後輩が東京から遊びにくる、という。
3年年下の彼とは大学時代、下宿でよく酒を飲んでいたもので、映画の好きな彼は多少サークルの部員からは「変人扱い」されてはいたが頭脳は明晰であり、酒を飲む場ではボクと不思議とウマがあったものだった。
その当日、彼は「1泊の恩義に」と「酒を持ってきました」と言う。
その前の電話で、ボクの酒の好みはなんとなく伝えてはいたのだが、彼自身はバーボンには興味がなかったせいで、「寮の先輩に薦められて」と取り出したのが、「JIMーBEAM」の白いラベル。こんなの知らない。
「これなら、間違いない、とセンパイに言われて持ってきました」とにこにこしながら言う彼の気持とうらはらに、ボクは少しがっかりしましたっけ。
今思えば、そのブランドは相当有名であり、失望したボクの方が恥ずかしいと思うべきだったのだが。

その後、自分の舌を信じれば「ニセ酒」と思えるウイスキーに何度となく出会って、いつしか購入を躊躇していたそのタグイのウイスキーをおそるおそる確かめているうち、たどり着いたのは、その「JIMーBEAM」。
幾度か購入するうちにそのロゴの入ったロックグラスやタンブラーや、今も愛用している本皮製の携帯ストラップを手に入れた。

おそらく、これからも愛飲していくであろう,そのバーボンを口に含むたびに、あの時の彼の気持を少しでも埋め合わせできるだろうか、と後悔の念に時折かられてしまう。